appe-zigzagのアンテナ

ご一緒に人生を楽しみ尽くしましょう

私は、小さい子が好きじゃないと思っていた【未完了に向き合う】

*文中の写真はLINEのスクリーンショットを除いて全て無料素材サイトより転用したもので、執筆者とは関係のないものです。

泣きながら宿題に取り組む

 

いつ:

幼稚園にはいる前、3歳後半か4歳前半ぐらい

 

何があったか:

『そくしん住宅の、2階の階段の踊り場で、向かいの部屋に住んでいる男の子とよく遊んでいた』

 

 

『遊んでいる途中で、男の子が「ちょっと待ってて、家に帰って麦茶を飲んでくるから」と言うなり、短い階段を駆け上がって家に帰った。遊びが終わってから飲むんじゃなくて、途中で家に帰るんだ、面白いなと思った。男の子の行動にびっくりした』

 

 

昭和40年台の公団住宅の、鉄の扉。小さな男の子が頭の高さにある銀色のドアノブを引っ張って中に入っていく。重たい鉄の扉がバタン、とゆっくり閉まる画像からは、コンクリートの階段のひんやり湿った空気の匂いまで蘇ってくるようだ。

 



 

『おままごとセットの中に入っていた、黄色いひしゃくが、大きさも握り具合も本当に気に入っていた。なのに、側溝の中に落として取れなくなってしまった。本当に残念だった。雨水集積枡の上を通りかかるたびに、銀色の格子の蓋の上にしゃがみこんで見えない穴底を覗き込んだ。大雨が降るたびに、あのひしゃくはどこに流れ着いたのだろうと考えていた』

 

涙が出る。

 

自己基盤合宿『価値を中心に最適応する』の参加者グループに、真樹コーチからの宿題が提示された。内容は自分の年表を書く、というものだった。

 

 

合宿前に宿題なんてあるんだあ、と少し驚きながら、食卓テーブルでノートパソコンを開く。

「これはいつ頃の記憶だったんだ?」と自問自答しながらキーボードをぱちぱち叩く。印象深い出来事をランダムに書いてみる。

 

 

一つ、二つとエピソードを書いていくうち、思い出しもしなかった出来事が少しずつ蘇ってくることに驚く。

 

 

あんなことがあった、こんな風に言われた・・・最初は「結構覚えているもんだなあ」という驚きと共に作業を進めていた手が、込み上げて来る涙に邪魔されて、たびたび止まる。

 

 

 

ティッシュに手を伸ばして鼻をかむ。

決して、子ども心に悲しかったことばかりを思い出しているのではない、楽しかったこと、気持ちが高揚したこと、驚いたこともたくさんあるのに、ただ、涙が出る。

 

 

宿題は年表だけではなく、「子どもの頃の写真を持ってくること」なんていうものもあって、合宿当日までに数枚を選ばなければならなかった。

 

 

乳幼児期から小学生時代の写真が収められている古いアルバムは、15年ぐらい前に一度開いて見た覚えがあるから、そこまで新鮮な驚きを感じることはないだろう、アルバムを見て何か特別な感情に囚われるようなことはないだろう、と思っていた。

 

 

そう思っていたのに、劣化して張り付いたページをめくりながら、何とも説明し難い、奇妙な気持ちになる。

 

 

なんだか、ぼんやりとして曖昧な、朝に目が覚めたらすぐ薄れて内容を忘れてしまうような夢の中を見るような気分だった。

 

 

こんな風だったっけ?という驚きと、そうだ、確かにこんな風だったという自分の記憶との照合。褪せた写真の中に、はるか彼方へ過ぎ去ってしまった昭和があった。

 

 

写真の中で丸々とした頬の妹が無邪気に笑っている。一緒に写る私は、妹を見ている。

 

小さい子どもが好きになれなかった

私は小さい子どもがそんなに好きじゃないな、という感覚をずっと持っていた。

正直なことを言うと、結婚した時も自分の子どもが欲しいとは思っていなかった。

 

 

その後、妊婦になってしまった時も「もうすぐ赤ちゃんがやってくる」というワクワク感は遠く、「人体とは何と不思議なものか」とか「哺乳類の進化」とか「魂の所在とは?人を人たらしめるものって何だ?」とか、自分の身体が変わっていくことなんかを冷静に観察する気持ちの方が大きかったぐらいだ。

 

 

そんな私であるから、赤ちゃんが家にやってくることを心待ちにする人たち、そして赤ちゃんを前にするだけで幸せになってニコニコしている人たちを見るにつけ「あんな風になれないな」「私はきっと神経質で冷たい人間なんだろうな」とずっとどこかで思っていた。

 

 

私のかつての職業を知っている人は驚くかもしれない。私は小学校の先生をしていた。ズバリ、子どもを相手にする仕事だ。内地で、離島で合わせて15年働いた。

 

 

子どもどころか、人づきあいがよくわからない、とどこかで考えていた。そんな人間が多くの人々との中で仕事をしていくのだ、苦労した。信じられないような迷惑をかけ、大いに助けてもらった。

 

 

未だにあの頃のことを思い出すと、床を転がって頭を掻きむしりたくなるような後悔と、どうやって謝ればいいのかわからない、せめて過去の出来事として忘れて欲しいという身勝手な願いが湧き上がって脂汗が出るような気持ちになることがある。

 

 

私は公のお金と周囲の犠牲でもって社会人にしていただいた。子どもとは何か、集団を相手にするとはどういうことか、人の気持ちとは、ということをようやく仕事を通して学んだ。

 

 

だから、私が子どもと同じ時間を過ごすことができるようになったのは、『仕事と訓練のたまもの』にすぎない、と思っていた。

 



小さい子どもが好きではないな、と感じていた理由は、わかっている。妹だ。

 

 

小さい子は、一生懸命説明しても、やらないで欲しいことを理解してくれない。

妹は、一生懸命なぐさめても泣き止まない。

妹は、私が遊びたいことと別のことをするから、危なくないように見ていなければならない。

妹は、無鉄砲にどこへでもハイハイして行って、触ってはいけないものを触ろうとするから止めないといけない。

妹がいると、私のやりたいことができない。

妹と一緒にいると、私はどうすればいいかわからなくなって途方に暮れる。

 

 

妹との楽しい思い出がゼロだったかというと、そうでもない。一緒にたくさん遊んだし、楽しかったこともあった。

 

 

けれど、「なんとなく小さな子どもは好きじゃないな」という気持ちと、それと真逆の「小さな子どもを退屈させたり、ぐずらせたり、大声で泣かせたりしてはならない」(たぶん、泣き喚かれて手に負えなくなると、子ども時代の私が困るからだ)という、

一見、両極端の気持ちが私の中に同時に存在している。

 

 

両極端の気持ちを持ったまま、あの頃の世界の果てだった、長い長い階段の上の畑や、どこかに流れていった黄色い柄杓のことを心の奥深くにしまい込んで『大人風』の顔をしてこの年齢まで生きてきた。

 

 

何度も言うが、楽しい思い出が無かったわけではない。妹とは仲が悪いわけでもない。

大人になるにつけ、妹を尊敬し、頼ることが多々あったし、姉妹でしか通じない話で笑えるのも面白い瞬間だ。

 

 

ただ、何となく薄れて忘れそうになっているけど、「小さい子がそんなに好きじゃない」「妹が小さい時は大変な思いをした」「私は本当の意味では、小さい子を慈しむことができない冷たい人間だ」という気持ちがどこかにずっとあったということだ。

 

 

今にしてみれば、それは、気球が浮上するのを阻む砂袋だったのだと思う。自分自身でぶら下げていることにすら気づかない、目に見えない錘(おもり)。この錘に、思いもよらぬ形で気づいて、切り離すことになるとは・・・

 

自己基盤強化合宿での気づき

「子どもの頃の年表を書く」「子どもの頃の写真を持っていく」という2つの宿題を持参して、暑さ真っ只中の7月、自己基盤強化合宿に参加した。緊張と、楽しさと、たくさんの刺激の中で、件の写真を扱う時間になった。

 

 

合宿参加者がグループの中で、そして全体の場でシェアしていく内容を聞く。時に重かったり、しんどかったり、クスッと笑えたりする体験や感情を聞くにつれ、自分の内側にある古い箱がガタガタ揺さぶられていく。開くことを忘れていた古い蓋が少し開いて、自分自身で気づきもしなかった錘が顔を出す。そんな中で私は、「困惑した」ということを皆に聞いてほしくなった。

 

 

「子どもの時の写真を見ると、愛され、大事にされていた私がいました」

「自分では、『(叱られたり、嫌だったりしたことは)もう終わったこと』とか『乗り越えた気持ちだ』と考えていたし、すっかり忘れて過ぎたことにしていたのに、過去と今の自分が繋がっていることに驚きました」

「写真の中に若い両親が写っていました。なんと言うか、困惑しました・・・」

「これをちゃんと味わって、感情を大事にしてあげたいと思います」

 

 

私のシェアに対する真樹コーチからのフィードバックをいただいて着席した後、他の参加者が次々に発表していく。

 

 

自ら話すことで昂っていた気持ちが少し落ち着き、他の参加者のシェアに耳を傾けていたら、唐突に蘇ってきた場面があった。

 

 

参加者それぞれの思い出のシェアに触発されたかのように、今の今まで思い出しもしなかった記憶がどんどん出て来る。 まるで、自分の内側の古い箱がガタガタ揺らされて、振動で中身がこぼれ出すようだった。涙が止まらなくなった。

 

 

お腹の中には赤ちゃんがいて、もう少ししたら出て来るんだよ、という話を母から聞いたこと。私の視線は母の腹に向いていて、「それってどういうこと?」とでも言うべき、何だか不思議な気持ちだったこと。

 

 

話を聞いてから、『お腹に小さい人がいる大人の絵』を何枚も描いたこと。よっぽど印象的だったのか、立て続けに何枚も何枚も同じ絵を描いたのを思い出す。

 

 

妹が生まれた後、父に連れられて、しりつびょういんにお見舞いに行ったこと。ベビーブーム世代の2~3年後だった。ベッド数が足りなかったのだろう、ベッドがある部屋とは別にある、大きな畳部屋に合宿所のごとくたくさんの布団が敷いてあり、そこにずらーっと女の人が寝ていたこと。

 

 

布団に寝ていた、知らない女の人に「これ、あげる」と言われて、生まれてはじめてレモンスカッシュの缶ジュースをもらったこと。黒地に白い水玉模様の、缶ジュースの色や模様まで覚えている。そしてレモンスカッシュの炭酸が強すぎて飲めず、父にあげたこと。

 

 

たくさんの女の人の中からやっと母を見つけ出して近くまで行くと、赤ちゃんは一緒には寝ていなかったこと。

 

 

「見て、大きかったお腹がへっこんだよ」と言われたけど、「そう言えばそうかなあ・・・確かに大きかったなあ」と思ったこと。

 

 

「赤ちゃんは入院しているから、まだ家には連れていけないんだよ」と母が言ったこと。

 

怒涛のように蘇ってくる場面に、涙が止まらなくなる。

 

 

なんだよ、こんなに覚えているなんて。私、うちに妹が来るのを楽しみにしていたんじゃん。

私は妹が来ることを嫌がるような冷たい人間じゃなかった。私、楽しみにしてた。

 

 



同時に、古いアルバムを見た時の、困惑の正体にも気づく。懐かしいなあ、でも、良い時代だったなあ、でもない、困惑。

 

 

それは、私という人間の基礎を形づくり、「世界はこういうものだ」「あなたはこうすることが正しい」と、倫理や価値観のおおもとを形成してきた両親が、今の私よりもはるかに若い、若造と言ってしまってもいいような年齢である、という事実に対する困惑だったのだ。

 

 

なんてことだ。無意識に存在する、頭上はるか高く聳える、強固な壁・・・私の周りを取り囲む思想や価値観の基礎になったであろう両親は、たかだか20~30代の、今の私から見ると若い、若すぎる夫婦だった。

 

 

この若い妻の、この若い夫の毎日の生活と子育てに波風がなかったはずはない。理想と現実の狭間で何も考えなかったはずがない、私がそうであったように。

 

 

4歳になるかならないかぐらいの幼児に、「お腹の中に赤ちゃんがいる」と説明する若い母は、何を感じ、どんな気持ちだったのだろう。

 

 

市立病院へ行くために、私を『よそいき』のスカートに着替えさせて(男親がそういうことをしない時代だったように思う)車に乗せた父は、どんな気持ちだったのだろう。

 

 

それぞれが、目の前のことに一生懸命頑張ってきたんだよね、と思った。

成功も失敗も、良い瞬間も負の感情に翻弄される日もある中に、小さい2人がいたんだよね、と、時代を遡ってねぎらうような気持ちになった。

 

 

こうして欲しかった、ああしてほしかった、こうありたかった、という気持ちは風船がシワシワになってしぼむようにどうでもよくなる。

 

 

そして、他の参加者のシェアを聞いて、はじめて思った。

そういえば妹はどう感じていたのだろう。「小さい子はそんなに好きじゃないなあ」とうっすら思い続けてきた私と過ごす日々は、どんなものだったのだろう。

 

 

私は面倒をみたつもりだったけど、楽しく一緒に遊んだつもりだったけど、長女ではないことで嫌な思いを味わうことはなかっただろうか。

 

 

「家に帰ったら、妹に連絡しようと思います」と言う私に、同じグループの参加者たちが承認と励ましの言葉をかけてくれた。

 

 

地図は現地ではない

合宿の中で真樹コーチが言った。

 

 

「『地図』は『現地』ではないんです」

「私たちは『地図』にこだわって『現地』を見ていない」

 

 

私たちはたくさんの地図、処世術のようなものを知っている。

 

 

運を引き寄せるためにはどうすればいいでしょうか?ポジティブな発言を心がけましょう、それが運を引き寄せます。

 

どうしても怒りが抑えられません、どうすればいいでしょうか?自分を俯瞰して見てください、そうすることで負の感情を抑えることがでるでしょう。

 

やる気を出すにはどうすればいいでしょうか?まずはチャンクダウンしてハードルを下げましょう。そうすれば一歩進むことができると思いませんか・・・

 

 

様々な処世術はとても有用だ。有用だけれど、それはまだ地図でしかない。地図には単に記号としての情報しか示されておらず、そこには身を削るような体験、それに伴う生々しい感情の発露、心の底からの納得、のようなものは、無いのかもしれない。

 

 

自己基盤(パーソナルファンデーション)に向き合うのは、自分の中にある、忘れかけていた古い箱の存在を思い出すということだ。
そして、箱の中にある 誰かに(自分かもしれない)縛り付けられていたり、自ら小さくなっているモヤモヤしたものを『なかったこと』にせず、丁寧に扱う作業だ。

 

 

それは、単なる地図記号に血肉を乗せ、もともと持っていたはずのエネルギーを思い出させる。

転んでもしばらくすると忘れて、次の遊びに興じていた時代のパワーを呼び戻す。思わぬ行き止まりや道の消失にもオロオロしなくなる。

 

 

今、素の気持ちのまま、言うことができる。

 

 

私は妹が生まれて来るのを楽しみに待っていました。

どこかの漫画のように私の世界をぐるりと取り囲んでいた高い壁は、簡単にまたぐことができる土手であることに気づきました。

気球にぶら下がる砂袋を、また一つ切り離した気分です。とてもいい気分です。

 

 

自己基盤講座あるある

 

  • 自己基盤合宿のテーマは『価値を中心に最適応する』だったけど、別のテーマ『未完了』に向き合うことになった(ほんとにあるある)
  • 自己基盤を学ぶ前に知っていたハウツーが、自己基盤を学ぶことによってより力強いものになる
  • オンラインの講座とまた違う、リアルの講座の良さがある(どっちも捨てがたい)
  • ありきたりですが、すぐには変わらないけど、参加して、続けてみてほしい自己基盤

 

 

おまけ

 

返事が来た

 

非常に丁寧な感謝のメッセージが来てドギマギしました
言い忘れていましたが、妹はたいへん気遣いのできる、よくできた人です
私と一緒にいると、私がぼーっとしてるので、私の方が年下に見られたりします。背も妹の方が高い。

 

講座の中で話題に出る こばやし せいかん さんの本